「アナザー・カントリー」~ここではないどこか~
こんにちはこんばんは。
Jr.SP和田優希くんが座長を務め、我らがIMPACTors鈴木大河くんも出演する舞台「アナザー・カントリー」を観てきました!
元々は1981年に初演を迎えた舞台作品であり、それを原作とした1984年の映画が有名な今作。
1930年代のイングランドの全寮制パブリックスクールに通う少年たちの物語……なわけですが当時の社会的・宗教的背景が色濃く現れており、日本人には少々難しいかも?というのが正直な感想です。
また「新鮮な気持ちで舞台を観る」のが好きなので今回も事前に映画は履修せずに挑みましたが、観劇後脳内を整理すために映画のレビューとか見ちゃった!えへ!
これは映画見た方が理解度が深まる気がするな~~っっ見ます
歴史的背景に触れて感想を綴ってくれる方は多いと思うので、私の感想はちょっと違う側面からアプローチして書いてみました。
まだ一回しか見てないので嚙み砕きながらです。。。
※ネタバレあります
※二回目・東京千秋楽後に加筆した部分はこの色になってるよ~!
1.同性愛というタブー
ベネットは自由奔放な同性愛者であり問題児でした。が、その実頭の回転は速く度胸も教養も身に付けている。なにより顔がめちゃくちゃ良い。だって和田優希だもん。
彼もまたカリスマの持ち主なんだと思います。だからこそ問題行動があってもトゥエンティ・トゥー(スクールカーストのトップみたいなもの)のメンバー入りに近かったわけですから。
異端児であってもエリートの道をゆくベネット。
が、結局は「同性愛者」であることを原因として裏切られるわけです。いや、利用され排除された。
多くの生徒と関係を持ったけれども彼らにとっては「若気の至り」「暇つぶし」でしかなかった。愛も無いし同性愛は「タブー」なわけですから。
※ここから宗教と同性愛について触れるけど私は専門家じゃないよ!!
※ギリギリ知っているぼんやり知識から感想を語っているよ!!!
1930年代は現代よりもはるかに同性愛に対して忌避の目がありました。
そもそも、キリスト教において同性愛は許されるものではありません。日本以上にキリスト教と密接に生きているヨーロッパでは同性愛者は宗教上の「罪」の存在であり、子を成せない同性行為は認められるものではありませんでした。
※宗教上禁じてても影では…とか暗黙の了解で…というのはあるあるです。なので寮内でそういったことが蔓延していたと思われます。
※なお、実際キリストが同性愛を禁じたわけではないよね?という考えもあります。宗教というのは人・宗派の数だけ解釈があります。宗派によっては性的嗜好としての同性愛は認めるが行為は禁止…という考えもあったりするので。
そこでふと「同性愛は禁忌」とされる根拠って何が引用されることが多いっけ?と思い再確認したところ<新約聖書 コリント人への第一の手紙>がヒットする、のですが。
一部の内容が「アナザー・カントリー」の、彼らに重なるな~と思ったのです。
※聖書のことをよく知らない人は
新約聖書:キリスト誕生後~のまとめ と思ってね!
<新約聖書 コリント人への第一の手紙 第6章8節~10節>
しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。
それとも、正しくないものが神の国をつぐことはないのを、知らないのか。間違ってはいけない。
不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となるもの、男色をする者、盗む者、
欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪をする者は、いずれも神の国をつぐことはできないのである。
どう???(圧力鍋🥘)
私はこれを読んだ時に、これは寮生たちのことだなと思ったし、神の国=アナザー・カントリーをつぐ資格を持つのは大河くん演じるジャッドだけなんだと感じた。
ジャッドはベネットからの身体の誘いを断り、それでも親友で居て、強い信念と『最大多数の最大幸福』を選ぶ勇気があった。
追記:ベネットとベネット以外の同級生たちに対するジャッドの「おやすみ」の言い方に温度差があってテンションが上がってしまった。大河ちゃん最高?最高。
やっぱりジャッドにとって友人・親友はベネットだけなんだな~~。
2.アナザー・カントリーとは
劇中で何度も流れるのがイギリスの愛国歌『I Vow to Thee, My Country(祖国よ、我は汝に誓う)』(メロディはクラシックの『木星』が用いられているので聴き馴染みあるよね!)
前者は舞台であるイングランドの国教会の聖歌でもあります。
この歌は1番では祖国・イギリスを*1、2番ではもう一つの祖国、神の国・天国=アナザー・カントリーを示しています。個人的に2番の歌詞はジャッドが目指す世界のような気もするんですよね……
→<軍隊もなければ王もいない><平和な国であり続ける>
→資本を社会の共有資産とするマルクス主義=軍が支配・国が資本を管理するのでもなく、資本主義のように貧富・差別が生まれることのない世界
劇中、ジャッドは頑固に、けれども真っすぐに自分の信念を貫いていこうとします。自分の理想を持ち続けます。
監獄の様な、軍隊のような世界からの脱却。闘い、革命を起こし、アナザー・カントリーを目指す。
一方でベネットはそんなジャッドの理想を笑っていたのですが、彼は将来共産主義に傾倒し、ソ連のスパイとなるのです。
→実在のスパイの学生時代を描いたのが「アナザー・カントリー」の物語だったんですね…観劇後に知ってビックリした🤯
追記:後から知ったんですがジャッドって亡くなってしまうんだね…それもベネットの人生を変えた一つの要因になったんだろうな。
結局自由に生きたいと思いながらも順風満帆なエリートの道を歩もうとしていたベネットはメンジースに裏切られ、挫折します。
怒りに震えるベネットを支えたのは、やはりジャッドでした。ジャッドも裏切られた側なのに…まじで良い奴……
そして「闘え」と鼓舞するジャッドはずっと手に持っていたマルクスの資本論の本をベネットに渡すのです=共産主義を受け入れるベネット
またこのシーンでは寮=黒ばかりの重たく暗いセットからほとんどの物が取り払われ、初めて赤い夕景のような照明の中でお芝居が展開されていました。
それはまるで怒りに震えるベネットの復讐の火が燃えているようで、共産主義を手に取って自分と親友を排斥するような世界・ここではないどこかを目指し始めたように見えました。
つまりこのシーンでは、共産主義を手にしたベネットが将来、国を裏切るソ連のスパイになることを暗示しているんだと思います。
(これは私の我儘なんだけどパンフレットだけじゃなく舞台中にもベネットがスパイになった流れ入れて欲しかった…🥺)
また砂嵐のような音も何度も流れます。
何度も何度も流れます。
私はまるで傍受無線の雑音のようだな、と思って傍受無線=スパイ活動=ベネットの未来…かな、とか考えたり。考え過ぎかな〜🥺??
もう一回観る機会があるのでその時に愛国歌と砂嵐が流れるタイミングや数を意識してみようと思います!
追記:砂嵐の音は後半にかけて多く・長くなっていました。ベネットや物語の転機となるシーンに多く使われていた気がします。(最初はマーティノの自殺)
なのでやはり上記のような考え方でいいんじゃないかな~と。
皆さんはどう感じましたか??
3.バークレイとメンジース
良い対比だったと思うんだけど!?この二人!?!?
トゥエンティ・トゥーのメンバーであり寮長のバークレイ。完璧そうに見えて実際は事件後眠れていないという。全てを投げ出したい、とジャッドに零す姿はやはりまだ子供で、なんかちょっと守りたくなっちゃった🥺アレ、推しキャラかも?
一方メンジース。最初和田担から「終盤の怒涛の嫌な多和田任益最高だから」と言われていたものの(そんなに嫌な役ではなくね…寮長目指して事なかれ主義ならこんなもんじゃね…?)と思ってたんだけど「俺の下で」発言とウォートンに怒鳴るところでアラアラアラ???となり終盤の無敵メンジースでひっくり返りました。
底知れないものを演じる時のひでやマジ…強……*2
メンジースは本当に「政治家」らしい学生でした。
4.「自由」とは
デヴェニッシュの叔父・カニンガム。彼はあの時代には珍しい良心的徴兵忌避者。自分の理想と生き方を語っている時の自由さよ!対してベネット達は機械的に示された道を歩む、まるでロボットのよう。最悪な良い対比だなって思いませんでした?
SEの効果もあって、舞台転換のためにカチカチと動く少年たちはやはり自由の無い存在に見えました。学園・寮という狭い世界の中で雁字搦めになりながら生きている。
カニンガムとベネット達の違いは何か?単純です。大人か子供であるということ。
もちろん、大人でも「今の自分ではないなにか」「ここではないどこか」を求めるものだけど、狭い世界で過渡期を生きる彼らはよりその思いが強く、強いからこそ「自由」に捕らわれているのだと思います。
そして結局…一番「自由」に縛られているのがベネットかなって。
そのベネットがどうなったのかは映画の通りです。
ただこの物語が伝えたいことは例え少数でも、孤独でも、立ち向かい「アナザー・カントリー」を目指すその衝動を忘れてはならない、ということではないのかなと思います。
そしてその立ち向かう姿勢が、<ジャニーズJr.>である和田くんと大河くんに重なるとこでより響くのかもしれません。
なんだかダラダラ書いてしまった!!!
ひとまず「今」の私にとって舞台「アナザー・カントリー」はそんなお話に感じました。
次観に行くのが最後なので書き足しに来るかもしれません🖋
記憶違い起こしてるとこあったら教えてくださいね!
それではチャルジャヨ~~👋がちゃんがちゃーん!📞📞*3